ラスト・キッス”ラストキッス””カランカランカラン・・・・・・・ギーッ” ”バッカス”の重い木の扉が開く。 ”いらっしゃいませー” 「ちょっと、雨の中どれだけ待たせたと思ってんのよ。」 「残業があって仕方がなかったんだ、俺が忙しいのは分かってるくせに。とにかく座ろう。」 座り際に、カウンターにおかれた美里の腕の、小さな時計が光った。 ワインレッドのベルトに、紅色の長針と短針。ガラスに雨粒の跡が残っている。 美里に続けて、右隣に、男が座った。 「ミリオン・ダラー」 ふっ、あなたはいつもこれ。あなたらしいわ。 「私、ブルー・ムーン」 ”かしこまりました” 「ブルー・ムーン? 初めて聞くカクテルだな。」 「はは、あなたには関係ないわよ。”できない相談”ってとこよ。」 「・・・・・・・・・、ところで、この前のことだけど・・・・。」 バイオレット・リキュールの紫色に映えるブルー・ムーン。次第に、スミレの香りが、美里を包み始めた。 「この前、あの子の部屋まで行ったよなぁ。美里、だいぶ酔ってたけど」 「行った?行ったかもね。覚えてないわ。あの子なんて言わないで。」 「覚えてない?あんなに行きたい行きたいって言っといて、着いたと思ったら倒れ込むんだから。」 「なによ、勝手でしょ。だいぶ飲んでたから。それに康一とのことは、あんたにはわかんないわよ。」 「どっちにしろ、もちろん、俺達の関係はこれからも続くよね。」 「さぁ。ちょっとしつこいんじゃない?、松田くん。」 美里は、不敵な笑いを浮かべ、ブルー・ムーンを口に含んだ。 屋根を打つ雨音が店の中に響き始めた。 「松田くん、マリンスポーツやってる、っていってたよね。」 「そうそう、資格もあるし、インストラクターだってやろうと思えばできるさ。」 男は、口の広いシャンパングラスの底に残ったカクテルを、一気に飲み干した。 はは、そりゃそうよね。あなた、裸になっても茶色くキレイに日焼けしてるものね。 でも・・・、とっくに気付いてるわよ。スポーツやってたのが、仇ってやつね。 「結婚してるでしょ?」 「えぇ!? いきなり何を言い出すんだ? 今日の美里はちょっとおかしいよ。 結婚なんかしてない、してない。」 おかしい?これがいつもの私さ。私を知らなさすぎたわね、松田くん。 「へぇ~、まだしらを切るわけ。」 深く、紫色に透き通ったカクテルグラスから目を離した美里は、男の左手に目を落とした。 「なんだよ。」 「あなたの、その左手の薬指よ。」 「そこだけ白いのはなぜ? ちょうど指輪が一つ入りそうな跡だわー。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「なんか言いなさいよ、いつものあなたらしくないじゃない、どうしたのぉ? 松田くんこそちょっとおかしいわよぉー。」 覗き込んだら、あなたの顔がよく見えるわー、 ひきつってるじゃない、かわいそうに、見る価値ないわ。 「いや、それでも僕は美里に本気で・・」 男は言いかけてとっさに、美里の腕をつかんだ。紅色の時計の針が、キラリと光った。 美里の体から、スミレの香りが仄かに漂いだしていた。 「もう終わりね。」 「夕顔」 ”かしこまりました” 「ゆ、ゆうがお?」 「甘いわよ、いつもいつも、ミリオン・ダラーと、マタドールばっかりのあなたは。 源氏物語の夕顔にちなんだカクテルよ。」 マスターの、シェイカーを振る音だけが、乾いた店内に響き渡った。 いつのまにか、屋根を打つ雨音も消えていた。 「私、夕顔になりたかった。夕方に、ひっそり咲く白い花。 か弱くて、目立たないけれど、見つけた人は、守りたくなる、そんな花。 私、朝顔でなければならないことが多かったから。 リードして、指図して、守って。こうしなきゃ、ああしなきゃ、してあげなきゃ、って。 でも、それだけじゃ、満たされなかった。部屋で一人で弱りきって、 でも、弱みを見せちゃいけない、って頑張ってた。 頼り切れる人がいたら、どんなに楽だろう、 私の影が薄くても、そばに寄り添っているだけで、リードしてくれて、指図してくれて、守ってくれて。 そんな強い人の、夕顔でいたい、なんて、思ったのよね。」 「なんにも言えないでしょうね、松田くん。康一なら、こういう時、まだ、くいついてきたわよ。 若いからか、純粋だからかは、分からないけど、くらいついて、ずれてても、真剣に自分の意見言った。 強くって、楽しくってノリで人生歩んでいけるあなたには無理ね。 普段は、饒舌(じょうぜつ)で、かっこいいけど、朝顔にもなれないじゃない。」 「・・・・・・俺、美里のために別れたっていい・・」 は?何言ってるの、あなたは信じられないだろうけど、結婚していたって、いなくたって同じよ。 あなたと一緒にいて、いつも楽しかったけど、ものたりなかった。楽しいだけじゃだめよ、 強いだけじゃだめよ、男は単に若けりゃいいってもんじゃないわよ、しかも所帯持ってるくせに。 遊ばせてもらったのは悪かったけど、いつも康一のことがいつも気になっていたわ。 まさかね、そんなこと露知らないでしょうよ。あなたに言ったって、無駄だわ。 男は、悲しみ笑いに顔をゆがめながら、何もいえずに黙っていた。 夕顔を一気に飲み干した美里は、背筋を伸ばし、一仕事終えたあとの、 満足感にひたっているような目つきで、棚に並んだボトルを見つめていた。 あたりを取り巻いていたスミレの香りはいつしか消え去っていた。 すがすがしく、凛とした声で、美里が言った。 「ラスト・キッス、お願い。」 ”かしこまりました” copyright(C)2000,by Toyo.K. (注)ここで出てくる「夕顔」とは、正式には「ヨルガオ」の ことを指しています。夕方に白い花を咲かせる「ヒルガオ科」 の花です。ただ、ヨルガオからみれば、見劣りするものの、 正式な「夕顔」(ウリ科)も、夕方に白い花を咲かせますので、 好みにより、どちらを想像していただいてもかまいません。 ジャンル別一覧
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